わたしの噂上井草の駅に着くと、たった一度しか行ったことがないのに、駅をおり商店街をぬけ、突き当たりを左に折れる、といった道順を、考えることなく、柴は歩いていた。 それは、身体がおぼえているように柴には思えた。 アパートの前に着いたが、灯はついていない。 松林のドアのポストは、夕刊が突っ込んだままであった。 まだ、かえってきていないらしい。 おそらく10分おきくらいのペースで着く普通電車が上井草の駅に着くたびに、駅方面から人が流れてくる。そして、また人の流れが途絶える。 しかし、30分待ってもかえってこない。1時間。まだかえってくる気配はない。 時間は10時近くになろうとしていた。この上井草から柴の家までは歩けない距離ではないが、歩くには少ししんどい。 電車のことなどを考えると、帰らざるをえない。柴は、あきらめて駅へむかった。10時をすぎると、駅前の商店街も、焼肉屋、居酒屋といった飲食店があいているだけだ。 柴は夕食をとっていなかったが、それよりも、松林の寂しげな姿がどうしてもわすれられなかった。 ホームで待っていると、西武新宿行きは出たばかりで、待っている人の姿はなかった。そこに、下りの上石神井行きが入ってきた。 けっこう、混んでいる。その電車が通り過ぎると、あとには静けさがもどった。 そして何げに下りのホームを見ていると、松林が自動改札を抜けていこうとしている姿が見えた。 柴はあわてて、駅員に断って外にでた。そして、踏み切りをわたり、松林を追いかけた。 「おい、松林、どうしたんだよ、さっきは。」 松林の顔は、アルコールが入っているのか、少々、赤みがかかっていた。そしてはく息は、アルコールの濃密なにおいがした。 「ごめん。ちょとたまたま、学生時代の友人に会っちゃって。ちょっと飲もうって誘われたのよ。」 柴は松林をみたことを、言おうかとも思ったが、会社でみせた寂しい表情の松林を、思い出し、ぐっと堪えた。 「柴さん、まてったの?ほんとうにごめんね。」 「いいんだ。」 自然と、ふたりは松林の部屋に向かって歩いた。 「なんか、相談ごとがあるように感じたんだけど。」 「うん。でも、ここじゃなんだから、部屋にあがって。」 足下が、多少おぼつかないかんじで、部屋にたどりつくと、ミッキーマウスのキーホルダーのついた鍵をとりだして、中にはいった。キーホルダーには、いくつかの鍵がついていたが、柴はとくに気にもとめなかった。 「どうぞ。」 「なにも食べてないんじゃない?」 「そういえば、なんも食べてなかったか。」 松林は、荷物を置くと冷蔵庫をのぞいて、冷凍していたカレーのルーがあるのを見つけた。 「カレーでも食べる?」 柴は、ひとりの時いろんなことを考えていたが、松林とこうしているだけで、それらの考え事が氷解したわけでもないのに、わだかまりなく、その部屋にいることに驚きを禁じ得なかった。 まえにきたときナイター設備がこうこうと照らしていた早稲田大学のラグビー部の練習場も、夜の帳がおりていた。 「できたわよ。」 きがつくと、カレーのスパイシーな香りが、部屋に漂っている。 「松林、たべてきたんじゃないのか?」 「うん。でも、柴さんと一緒にたべたくなったんだ。」 そういいながら、テーブルにらっきょうが3個のったカレーを、二つ置き、水のはいったグラスを二つ、つづけて持ってきた。 「たべようよ。」 柴は、ゆかに腰を落とした。 「いただきまーす。」 松林は、そういうとスプーンで、ごはんとカレーの境目を少し崩すと、その部分をすくって口にいれた。 柴もカレーには目がない。二人は、もくもくと食べはじめた。 二口みくち口にいれたときだった。松林が口を開いた。 「柴さん、わたしの噂って聞いたことあるでしょ。」 柴は口にいれていたカレーのなかにあったじゃがいもを、おもわず飲み込みそうになった。 |